ノート
日本の大戦後における「軍需産業から平和産業へ転換」について
詳細は続く
日本の大戦後における「軍需産業から平和産業へ転換」について
1.戦前は、工業では、軽工業、繊維などが主な国。
ですから、重工業、造船、輸送機器、電気などは、大きな需要は「軍需」しかなかった。
2.戦前の日本の兵器産業は輸出を前提としてなかった。「軍需」をまかなうのに手一杯。
3.「産業総動員」下では、軽工業も踏めて「兵器産業」への転換がはかられ、また「軍需」を前提とした企業も戦時計画に組み込まれた。
この背景で、「軍事産業から脱却」した理由は
★連合国占領軍による武器製造の禁止と民需転換政。
★また、輸出しようにも帝国陸海軍の兵器スペックは互換性が乏しく難しかった。
★憲法があり、また、国内での火器の所持が認められないので、マーケットがなく兵器製造を続けるメリットがない。
★官民旧軍の戦略的「復員」システムと、官民旧軍関係者の「復興」システム。
ー後述ー
事態は
1.「産業総動員」で「兵器産業」へ転換されていたのが本業に戻った。
2.「兵器産業」も上記のように内外に兵器マーケットが無かったのでニコン、日本光学のように転換せざるを得ない。
3.「復興」、産業復興で技術者、製造者、経営者が産業にシフトして行った。
中島は自動車として富士重、ブリンス経由日産、また、その電気・通信機分野は富士通、富士電機となりました。
株式会社ニコン、日本光学は、艦砲光学測定器、狙撃銃のスコープからカメラなどへ。
このような光学兵器では、東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・あのオリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(現・京セラオプテック)・榎本光学精機(現・富士フイルム)
魚雷発射管のメーカーは工業用コンブレッサの製造メーカーとなっています。
愛三工業は重てき弾筒(小迫撃砲)をつくるために設立されたが、戦後は、自動車部品製造を行っている。
http://www.aisan-ind.co.jp/company/70th%20Anniversary8-16.pdf
JUKI(東京重機工業株式会社)
昭和13年11月25日、日本を代表する機械メーカーの代表者が集まり、東京重機製造工業組合を設立し九九式小銃を製造し、昭和18年8月26日には同組合を解散し、東京重機工業株式会社を設立した。
戦後、民需転換でミシンメーカーとなった。
*平和構築における戦略的「復員」と、官民旧軍関係者の「復興」について
・復員のプロセス
1.停戦・終戦地域での平和的武装解除
2.組織的な兵員の帰還
3.帰国後の居住地への移送
主に、旧軍の参謀本部、軍令部が指揮した「第一二復員省官制」(昭和20年勅令第680号 1945.12.1)による第一復員省、第二復員省(46.6.15 復員省となる )による平和的組織的にこれら復員のプロセスが実施された事が大きい。
・復興プロセス 主に経済復興について
1.職場復帰 沖縄や海外支配地域を除き戦闘地域ではなかったが空襲等で壊滅的な社会基盤、経済基盤の破壊で企業も被害を受けていたが、企業が事業継続、再建を行う意思をもっていた。
2.起業 旧軍の技術者などを中心に旧軍で開発された当時の先端技術による起業が行われた。例として東京通信工業など。これらの企業が復興の牽引役となった。ちなみに東京通信工業はSONYとなる。
3.政策 壊滅的な社会基盤、経済基盤が破壊されていたが、政府の傾斜生産方式などの社会基盤が無い状態での復興政策をとったこと。(1946.12.27の『昭和21年度第四、四半期基礎物資需給計画策定並に実施要領』)
参考
軍需から民需への転換 : 旧第2海軍燃料廠から硫安肥料工場ヘ
A Drastic Switch from War Industries to Peace Industries after World War II : Conversion of the Second Naval Fuel Depot to a Fertilizer Factory in 1945-1946
三輪, 宗弘 , Miwa, Munehiro ,
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/6040/1/miwa-24-3.pdf