MELL EXPO2012(メル・エキスポ)
良い旅を、そして、航海の安全を祈る
3月10日、11日、MELL EXPO(メル・エキスポ)2012が(主催 MELL platz メルプラッツ)東京大学で開催された。
「メル・エキスポを主催するMELL platz(メル・プラッツ)は、MELL Project(メルプロジェクト)を引き継ぎ、2007年からメディア表現とリテラシーの「広場(プラッツ)」づくりの活動をしてきました。もともと5年間限定と約束して進めてきたこの活動は、今回のエキスポを最後に終わることになります。
それらのみなさんと5年間をふり返るとともに、デジタル・ストーリーテリングなどの意義を共有し、すでに構想しつつあるあらたな活動ビジョンを紹介していきます。
5年間をふり返ったり、参加者のみなさんからのメッセージを可視化するメル・プラッツならではの仕掛けも鋭意準備中です。
5年間に私たちが設けた大小いくつもの「広場」で活動や交流してくださった内外の学校、ミュージアム、市民メディア、マスメディア、アートやデザインなど多様な分野の個人や団体の数はのべ300近く。最終回の今回は、そのうちで最もアクティブに活動された20前後のグループをお招きし、木とガラスでできた一条ホールのあちこちにある「すきま」や「あな」でプレゼンテーションをお願いします。」(開催趣旨)
参考
#mellexpo
mell (Media Expression, Learning and Literacy Project)
開会のあいさつの後、メルプラッツの趣旨説明等を行なわれた。
昨年は、メルプラッツは震災を重く捉えてMELL EXPO(メル・エキスポ)2011を中止し、2011年度のテーマを「ポスト311のメディア社会とメルプラッツ」として日常的にポスト311を考える身体、様々なレベルの認識や係り方による多層性を重視する視点での活動を行ってきた。同時にメルプラッツの最終年としてメディア表現やメディアリテラシーにどう取り組むかを模索して来た。
また、各セッションは論議は壇上だけでなく、参加者もtwitterで#mellexpoに意見を寄せられるようにしてあり、その内容を常に「タイムラインプリンター」と呼ぶ小型のジャーナルプリンタでロール紙のレシートに出力する仕組みが用意され、それを壇上の議論に反映させた。
セッション1「広場(プラッツ)の5年と未来」では、MELL Projectの後継団体として2007年から市民のメディアリテラシー、メディア表現活動の研究や実践の交流のために行ってきたメルプラッツの活動をふりかえった。
そして、これらに参加した公共施設、学校、そして放送局の3タイプの実践者の発表を聞き、コメンテータのカルチュラル・スタディーズの毛利嘉孝氏(東京藝術大学)、科学技術コミュニケーション論の佐倉統氏(東京大学)と論議した。
各実践者は「プロジェクトを始めたきさっかけ」、「プロジェクトを続けてきて、何が変化したか」、「メルプラッツとの関係で得たもの」などを発表した。
まず、SKIPシティ彩の国ビジュアルプラザの鈴木みどり氏は、県立の施設でボランティアによる小中学生を対象にしたメディアリテラシーの「映像学習プログラム」を展開している。
この「映像学習プログラム」は2003年度より開始した川口市の小学5年生・中学2年生の「総合的な学習の時間」等を使って、インストラクターを派遣する映像制作授業を20時間程度で行うコースを展開し、現在は川口市では広く行われており、現在は映像スキル習得だけでなくプロジェクト学習や仲間づくりに活用されている。
次に、かながわメディアリテラシー研究所の中山周治氏(神奈川県立高校教員)は、メディアリテラシーは指導要領等では定められていないが、その教育目標を達成するのにメディアリテラシーの育成が必要であり、生徒の「能力」の育成だけでなく「関心・意欲・態度」の育成も含めた営みであると考え、教員の研究団体であるかながわメディアリテラシー研究所でプログラムを開発しも学校現場で実践している。
具体的には、メディアリテラシーを各教科、視聴覚教育、人権教育、国際教育、調べ学習や学校図書館・メディアセンターでの活動などさまざまな場所と文脈で実践し、現在、中山氏自身は前記以外に学校設定科目に「メディアリテラシー」を設けて実践している。
鹿児島テレビ放送の松元修二氏は、2009年の民間放送連盟の民放連メディアリテラシー実践プロジェクトをきっかけに「夏休みテレビジャック」というメディアリテラシープログラムを展開している。
これは、鹿児島では初めての取り組みで、こどもたちに「情報とは何か」「何をどう伝えるか」「テレビの見方」などをテーマにチーム毎に3分間の番組づくりを行いながら体感し学ぶもので、同局で放送されている。 現在はメディアリテラーシーも県内でも認知され鹿児島大学教育学部教員との連携なども行われるようになったが、局内の体制や直接的に利益に結びつかないなど課題も多いとのこと。
三者ともメルプラッツとの関係で得たものは、つながりや他の実践との交流などをあげていた。
佐倉氏はメディアリテラシーが学校にあるまじきものとなっていると指摘し、毛利氏は教科書は最大のナショナルメディアであるが、メディアリテラシーはそこから外れていると述べた。
近代のナショナルメディアとしての教科書は国内に同じ知識や情報を一元的に与えて、国家統合を促進し、国民意識を醸成する。
また、その批判者であり、同時に補完的な役割も果たしたナショナルメディアやメディアもまた知識や情報を一元的に与えてきた。
これら公共施設、学校、放送局での3つの実践は、それぞれナショナルな制度の中で、ローカルやコミューナル(共同的)なものからメディアやメディアリテラシーに取り組んでいる。そして、それが近代のナショナルメディアとしての教科書やナショナルメディアやメディアに対して批判となり、また、それを超えて伝える行為となっている。
2日にまたがって行われた「メディア・バザール&ハングアウト 1.2」は、小さな会場に分かれて、メルプラッツに縁やゆかりのある全国各地のさまざまな団体や組織のプレゼンテーションと参加者同士の交流が多数行われた。
その中の「ローカルの不思議」では全国の高校、大学の学生たちが「自分たちの住む地域について紹介する映像などを制作・交換し合うことで、お互いの地域についての理解を深めていく地域間交流のプロジェクト」の発表が行われた。
「つたえびとのローカルビスカフェ」では地方紙の中堅・若手社員、学生、市民などか集まって作られている本「つたえびと」が紹介された。「つたえびと」は執筆者たちが資金を持ち寄って、それぞれが書く事で本を作り、思いを伝えるプロジェクトで継続的に違う執筆者たちによって発行され、今回の震災についての想いを伝える「つたえびと3.11~東日本大震災モニュメント」も発行された。
また、「新潟大学地域映像アーカイブ」では、単なる記録ではない地域映像アーカイブをめざし、マルチステークホルダーによる地域映像文化遺産の継承のためのコミューナル(共同的)な映像アーカイブによる「ひとづくり・まちつくり」が発表された。
「子ども文化コミュニティ」では、子どもの文化・芸術活動への参加と子どもの社会参画というミッションをもつNPOとしてコミュニケーション力や創造力を重要視しており、活動を紹介しつつ、メディア表現やメディアリテラシーの必要性を語った。
これらの実践もローカルやコミューナル(共同的)なものからメディアやメディアリテラシーに取り組んでいるもので、「ローカルの不思議」のようにナショナルではなく、ローカルとローカルをつなくことや「つたえびと」のようにメディアを介したコミューナル(共同的)なもの・コミュニティを生み出している事例も多い。
セッション2「声なき想いに物語を~デジタル・ストーリーテリング「メディア・コンテ」の可能性と課題」ではデジタル・ストーリーテリング(DST)という、人々が20枚程度の写真や短い動画とナレーションで、自分の生活や記憶をめぐる映像シートストーリーを制作するワークショップ型のメディア実践について取り上げた。
デジタル・ストーリーテリングのひとつである「メディア・コンテ」の実践を通じて、今までのメディアリテラシー、メディア実践、どう発展させていくのかを論議した。
まず、「世界のデジタル・ストーリーテリング」としてメルプラッツの土屋祐子氏(広島経済大学)がデジタル・ストーリーテリングの成り立ちと現状やその対話的共創的な制作プロセスについて述べた。
次に、「声なき想いに物語をー「メディア・コンテ」のコンセプト」としてメルプラッツの小川明子氏(愛知淑徳大学)が愛知淑徳大学で開発・実践している対話と遊びを特徴とする「メディア・コンテ」のプログラムの概要や基本的な考え方を述べた。
「メディア・コンテ」は前物語空間の人の声なき想いを対話によって物語化し、映像によって作品としてメディアで発表するもので、それは人々の想いをメディアがつくる大きな物語ではない小さな物語にして、メディアにのせるものある。
そして、「ワークショップの現場からーメディア・コンテ日進パッピーマップ、メディア・コンテいわき実践報告」として、溝尻真也氏(愛知淑徳大学)と愛知淑徳大学学生の田中麻季代氏、森優輝氏が発表した。
メディア・コンテでは、在日外国人の子どもたち、高齢者、障害者のグループ、東日本大震災の被災地のいわきの大学生とともに「メディア・コンテ」ワークショップでデジタルストーリーをつくり、ケーブルテレビやウェブサイトで公開している。
田中氏は「メディア・コンテ日進パッピーマップ」で日進市の障がい者支援グループと障がいを抱えた当事者と一緒にまちを歩きながらまちの問題点を映像化した。
田中氏と共にデジタルストーリー作った当事者は「社会の意識レベルを変えたいという目的のために、障がい者の想いを映像化して、幼稚園の子どもたちにみせて社会を変えていきたい」と言ったという。
森氏は「メディア・コンテいわき」で福島県のいわき市を訪れて大学生とともに震災後の状況を映像化した。
森氏と共にデジタルストーリー作った被災地の学生達は被災地の現状や自分の想いを伝えたいという映像をつくり、そのひとりは、その映像で被災者に必要なのは「頑張りましょう」ではなく、「おつかれさま」だと主張した。
その後のディスカションでは、メルプラッツの小川氏、伊藤昌亮氏(愛知淑徳大学)とコメンテータとして臨床哲学の本間直樹氏(大阪大学)、映像表現の教育的可能性を追求するメルプラッツの宇治橋祐之氏(日本放送協会)で論議が行われた。
まず、本間氏は自らの臨床哲学の観点から行っているコミュニケーション・デザインの実践について語り、それは、世界内存在として世界を肉体で直接に読み、「安全な」場で対話するアプローチが重要と語った。
また、宇治橋氏はメディアでは「わかりやすいものを作りましょう」がつまらないものになっていく危険性を指摘して、メディアでは特にそうであるし、デジタル・ストーリーテリングや「メディア・コンテ」でも同じ危険性があるという。
その後、分かりやすさや凡庸性の問題や対話の意味等が論議された。(文末に見解を)
最後の「ポスト・メルのスケッチブック」では、メル・プラッツの水越伸氏(東京大学)がメル・プラッツを終えて、日本のメディアリテラシー、市民のメディア実践や研究をどのように発展させ、どこへ向かうのかについて述べた。
これまでのプロジェクトのコンセプトであるMELL (Media Expression, Learning and Literacy)
のスピリットは継承しながら「異種混淆的で横断的な」新しい形を模索し、地域のネットから国際的なネットの日常的なネットワークの再構築、研究会やシンポジウムのグローカルに持続させる非日常的な広場づくり、今だからこその冊子づくりなどのメディアづくりによる共同体づくりなどを実践して行くという。
今回は、これまでのプロジェクトのコンセプトであるメル・MELL (Media Expression, Learning and Literacy)の活動のふりかえりとポスト311の状況を踏まえた今後の構想である「ポストメルの構想」のための場であった。
いずれも、近代のナショナルメディアやメディアの構造やナショナルメディアとしての教科書制度(正しいテキスト)の中にあって地域・コミュニティやコミューナル(共同的)なものからメディアやメディアリテラシーに取り組んでいる。
大きなナショナルメディアと小さな地域・コミュニティやコミューナル(共同的)な取組みとの関係や意味について、ふたつの補助線を引いて、以下に私なりの考えを述べる。
ひとつは、中井のいうメディウムとミッテル (Medium Mittel)である。
(中井のいう弁証法の立場をとらないので中井のそのままではない。説明が複雑になるのでこれで止める。)
「メディウム」 (Medium)はコミュニケーションの送り手が受け手に対して優位を保たせる、媒介ないしはメディアである。
他方「ミッテル」 (Mittel) は送り手と受け手の対等性を認める媒介、媒体を要しないコミュニケーションである「無媒介の媒介」である。
いわゆるメディア (Medium)は媒体であり、他方は「無媒介の媒介」(媒介と比較すると無媒介に向かっているぐらいの意味 Mittel) である。
しかし、ここではメディウムとミッテル (Medium Mittel)を二項対立的に、また、弁証法的には捉えてはいない。
「メディア・コンテ」は前物語空間の人の声なき想いを対話・コミュニケーションによって物語化する「無媒介の媒介」(Mittel) のプロセスがあり、そして、それを映像によって作品としてメディア発表するメディア (Medium)のプロセスがある。
本間氏が、全ての対話は創発的であり、対話すればいいというのは「無媒介の媒介」(Mittel)のプロセスのことを指し、「メディア・コンテ」の小川氏、伊藤氏は出自がメディアであるからメディア (Medium)のプロセスから対話を考えている。
いうまでも無いが、本間氏がいう言葉による対話もメディア (Medium)といえばメディアであるし、私の行っている身体表現・「演劇的」表現も所詮メディアではある。
媒体素養(メディアリテラシーの中文表記)・メディアリテラシー、メディア表現はメディア (Medium)のプロセスであり、素養・リテラシー、表現は乱暴に言えば「無媒介の媒介」のプロセスである。
もう一つは、神話化と民話化である。これが大きな物語(神話)と小さな物語(民話・共同的な物語)に係る。
神話化とはメディア (Medium)・媒体によって作られる-選ばれる大きな物語のプロセスであり、民話化は「メディア・コンテ」や古からの語り・騙りのように民話的・身体演劇的につくられる小さな物語(共同的な物語)のプロセスである。
媒体素養・メディアリテラシー、メディア表現を取り扱う立場、メディア (Medium)のプロセスで言えば、分かりやすさや凡庸性が問題となり、大きな物語(神話)を批判的に解読し、メディアとして再創造することは当然のことで、ここにメディアの苦悩が宿っている。
また、素養・リテラシー、表現の立場、「無媒介の媒介」のプロセス(相当乱暴に言えば)でいえば、メディアとは関係の薄い日常世界の創発的な対話や小さな物語(共同的な物語)の創成をデザインしてればいい。
しかし、民話もまた、神話化のプロセスから逃れる事はできない。(物語化の罠)
この点において市民の電子的言説や市民メディアが小さな神話や物語・「騙り」を作り続けてしまう問題はいつもある。
それゆえ、市民メディアが自己批判・批判と創造的共同表現としてのメディアリテラシーを内蔵してなくては、道を誤る。
前物語空間の人の声なき想いを対話・コミュニケーションによって物語化する「無媒介の媒介」のプロセスがあり、そして、それを映像によって作品としてメディア発表するメディアのプロセスがあると書いたが、そもそもメディアと無媒介の媒介のプロセスを明確に分けることはできないし、神話化と民話化も分ちがたいものである。
従って、物語が秩序立て展開するという物語空間は、あくまでもメディアのプロセスからみたもので、そこから世界を見た時に前物語空間といえるのであって、前物語空間と名指されている世界にも物語は存在する。
この点を留意すれば、人の声なき想いが対話・コミュニケーションを経て、それを映像などによってメディアに発表し、そこから生まれるメディアの世界は、送り手と受け手の不均衡や「双方向性」をも超えて、コミューナルな新しいメディアを作れるかもしれない。
そして、それはメルプラッツに集っている実践だけでなく、今まさに、311以降にソーシャルメディアをはじめとした・メディア環境、複合的情報環境で起こっていることでもある。
さて、MELLはこれまでのプロジェクトのコンセプトであるMELL (Media Expression, Learning and Literacy) のスピリットは継承しながら、媒体素養・メディアリテラシー、メディア表現などのメディア (Medium)の世界におろしていた錨を上げ、「無媒介の媒介」 (Mittel) もある世界に向かって「異種混淆的で横断的な」航海に出る事になったようだ。
だから最後に
良い旅を、そして、航海の安全を祈る
世界政府を超えて 目指すは海賊王!!