こんにちは。かなりあ社中の山本です(かなりあ社中のFacebookファンページはこちら)。
これまで2回に渡って、自分の体験談を書いてきました(前々回のコラム「後ろめたくても、何もできずにいた」はこちら。前回の「恐る恐る、副社長に直談判してみた」はこちら)。
メーカーに勤務する、平均的な普通の社員である僕が、なぜ東日本大震災の被災地の支援に携わるようになったのか。そこから、何かを感じ取っていただけたら…。そう思ったからです。つたない説明ですが、もう少し、続けさせてください。
震災後、知人である、チームづくりの専門家でナガオ考務店の代表を務める長尾彰氏の呼び掛けに応じた僕は、「被災地の子供の心のケア」に焦点を当てた活動を始めることになりました。でも、手探りの活動で何から手を着けていいか分かりません。とにかく、現地を見なければならない。そう思った僕たちは、地震発生から1カ月後に被災地の宮城県石巻市を訪れたのです――。
子供たちが投じてきた剛速球
「もう来ねんだっちゃ? 永遠にバイバイだなや」
被災地で子供たちから聞かされた言葉は、痛烈なメッセージだった。
2011年4月16~17日。震災後、僕は初めて被災地に足を運んだ。15日の夜に東京を出発し、翌日の早朝に宮城県の女川町に到着した。車を降りた途端、眼前に飛び込んできた津波の爪痕と立ち込める異臭。あまりにも強烈すぎて、僕はその後の数時間の行動をよく覚えていない。テレビやインターネットでは決して理解できない現実がそこにはあった。
その後、石巻市立渡波小学校にお邪魔して、避難生活を送る子どもたちと触れ合った。直に子供たちに関わってみると、表面的な元気さに隠れた「抱えているもの」を感じた。それは大人との距離感だったり、子ども同士の会話の内容や声の大きさだったり、身体の動きだったりから伝わってくるもので、なかなか言葉では説明しにくい。とにかく、相当なストレスを感じているように見受けられた。
「子どもの心のケア」と言いつつも、まずは子どもに接している大人をケアすることが大切とも感じた。親はもちろんだが、日中は常に一緒に子供たちと過ごす学校の先生たちが大変そうだった。当時は、学校自体が避難所になっていて、その管理を先生たちが担うしかなかった。本来ならば、100%の力で子供に向き合うはずの先生たちは、ほとんどの時間を避難所の運営に費やしていた。通常の授業も、その対応でままならず、子どもに笑顔を見せる気力も失っている状態だったのだ。
そうした状況を見ている時に子供たちから聞かされた言葉が「永遠にバイバイ」だった。背景には、「支援慣れ」とも言えそうな状況があった。震災直後は、たくさんの有名人が支援のために現地を訪れていた。有名人ではなくても、見知らぬ多くの大人たちが毎日にように避難所になっている学校を訪ねてきていたのである。
その行動を否定してはいない。震災直後は、被災地に足を運ぶのだって簡単ではなかった。大変な思いをしている被災者にとって、多くの人の訪問は本当に心強い出来事だったに違いない。ただ、子供たちは、支援に来た大人たちの多くが、もう二度と来ないであろうことも把握していた。僕たちに対して、「永遠にバイバイ」という剛速球の言葉を投げてきたのは、そのためだ。