201303221

2000年前には宮城に100メートル級の津波!?震災を警告した歴史学者が予見する「次の巨大津波」

 

 「未曾有の自然災害」と言われた2011年の東日本大震災。しかし、その16年も前に、宮城県石巻市から仙台平野、福島県いわき市にかけての太平洋沿岸に今回の巨大津波が襲来することを予言し、警告していた人がいる。
 宮城県に住む歴史学者で、3月に『解き明かされる日本最古の歴史津波』(島影社)を上梓した飯沼勇義氏だ。

実際、この国は、噴火によって大地が造られ、海流や大気のあり方も含めて、水の豊かな独特な島国で同書によると、仙台平野には<宮城県沖と、その周辺の海溝型地震の震源地が連動して起こった>とされる巨大地震によって、西暦996年までの約1200年間に7回の大津波が押し寄せていたという。また、歴史上の空白の一部が歴史研究を通じて明らかになってきたことから、飯沼氏は、その後も200年ごとに大津波が繰り返していた事実を発掘した。
 しかし、1793年の「寛政津波」については、<1793年~1796年がまったくの空白>であり、<飢饉災害として処理された>と記述。1995年、飯沼氏は『仙台平野の歴史津波~巨大津波が仙台平野を襲う~』(現在は復刻版=本田印刷)を出版し、「寛政津波」から200年を経て、再び大津波は襲来すると、16年も前に予言していた。
 さらに驚いたことに、飯沼氏は前年の94年、当時の浅野史郎宮城県知事、藤井黎仙台市長に陳情書を提出し、仙台市や石巻市などの沿岸部一帯に、「津波防災上の様々な対策の早急な実施」を要望。当時の東北大学の津波工学や、東京大学地震研究所の専門家、行政などに対し、同書計400冊ほどを無償で配布したという。しかし、こうした警告が、地元の防災対策に反映されることはなかった。
歪められた「津波の歴史」地形や言い伝えなどから“歴史の真実”に迫る
 「歪められた津波の歴史に対する認識によって、宮城県だけでも1万人以上もの犠牲者を出した。やはり日本人は、歴史を精査する立場で、物事を見たり考えたりする思考力ができていなかったんだと思うんです」
 小・中・高校の教師、幼稚園長などを務めた飯沼氏は、これまで40年以上にわたり、地形の特徴や住民の間に残る伝承などから真実にアプローチしていくという手法で、宮城県を中心にした沿岸部の歴史津波を調べてきた。
 「それまでの地震学者や歴史学者が提唱してきたのは、証拠書類となる古文書を中心に、物事を見たり考えたりすることです。もちろん古文書はあったほうがいい。しかし、古文書だけで、本当の日本の歴史や、いままでの流れを掌握することは難しいのです」
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 飯沼氏は、これまでも津波は何回も押し寄せていて、そのたびに地形は変わっていると指摘する。実際、今回の震災でも、水田などのあった土地が海になったり、干潟になったり、湿地帯になったりしている。
 「(地形が変わったという)その部分に対しての証拠は何もない。それをどのように解説するかという思考能力は、これまで学校教育でも教えられてこなかった。これからは現地を見て、なぜこういう地形になったのかを考えることが重要です。例えば、伊達正宗の貞山運河は、干潟と干潟をつないだもの。点と点の干潟をつなげば運河になる。こういう考え方を、学校の先生方が教えることは難しいのです」(飯沼氏)
 例えば、宮城県名取地方の愛島、笠島丘陵地帯には、5世紀頃、300基以上の古墳が造られた。それらの古墳が、この時期に造られた理由を探っていくと、遡ってその40~50年前に、愛島、笠島丘陵下まで津波が来たことがわかるという。
 「(海水によって)塩分があると、農作物はできない。元の状況に戻るまでには、弱酸性か中性の土壌になることが必要で、40年から50年くらいかかる。そのために、人が住めない不毛の地となりますが、40~50年後には良質なコメを栽培できる土壌になるのです」(飯沼氏)
 今回の震災でも、遺族たちから「ここには津波が来たことがないので、来るとは思わなかった…」という話をよく聞く。実際、宮城県内を調べてみると、例えば、北上川河口の大川地区のように、明治三陸津波が来たという記録の残っていない地域がいくつかある。
 「(記録にないからと言って)ここは津波が来ていないから安全だという判断はできません。明治三陸津波より古い時代から、何回も津波は来ている。そして、繰り返される津波によって地形が変わっています。もっと遡った歴史津波を検証もしないで、(昭和三陸以降の)直近の津波の歴史を見て、(津波が来るか・来ないかを)判断するのは問題があります」(飯沼氏)
福島・岩沼沖で巨大津波を発生させる!?「アウターライズ地震」の危険性
 そんな飯沼氏がいま、「最も怖い」と心配しているのが「アウターライズ地震」だ。
 しかし、誰も根拠を示せていないとして、飯沼氏は、地蔵森山と千貫山の2つの伝説から、この「アウターライズ地震」を紐解く。
次のページ>> いつ来るのか分からない「アウターライズ地震」
 「アウターライズ地震」とは、東北の太平洋側約200キロにも及ぶ日本海溝の外側で発生する地震のこと(東日本大震災は海溝の内側)。震源地が陸地からは離れているため、陸地での揺れは小さいものの、津波は大規模なものになりやすいという。
 「福島・岩沼(宮城県南部)沖のアウターライズは、2000年近く動いていない空白域の地震帯です。東日本大震災より大きなマグニチュード9以上の揺れと巨大津波が予想され、福島県から仙台平野にかけて、大きな被害を受けるでしょう。前回起きたのは、西暦95年の『東北太平洋沿岸津波』のときで、仙台平野は大崎の辺りまで、壮大な運河のようになったとの記述があります。倭の国は(仙台平野の内陸が津波で海となったため)、旧阿武隈川河口から船で内陸へ進出する絶好の機会となりました。いまの大崎市と石巻市の間に大きな運河があって、倭の国の船が行ったり来たりしていたとの記述もあります」(飯沼氏)
 アウターライズ地震については、福島・岩沼沖では地震が起きておらず空白域になっていること以外、いつ来るのかといった周期性などは何もわかっていない。今後、有人潜水調査船「しんかい」の調査などによる回避が難しければ、西暦95年の東北太平洋沿岸津波から「教訓を学ぶしか予防方法がない」と飯沼氏はいう。
 福島県相馬郡新地町の地蔵森という標高350メートルほどの山には、新地の海岸から打ち上げられた津波が御神体を乗せた舟を山頂付近まで運んだという言い伝えがある。しかし、この地蔵森伝説は、福島県の東海岸地方で、昔から知られていた。元々、人々を救うことができる地蔵尊だったため、津波の恐ろしさを地蔵森の山に託して、後世に伝えたと言われている。
 また、宮城県岩沼市の千貫山では、標高50メートルほどの山腹まで津波が駆け上がったことがわかった。千貫山一帯の麓は、縄文時代から弥生時代にかけて海岸線で、山の中腹に千貫神社があったという。
 こうしたことから、飯沼氏は「2つの伝説に共通する津波の巨大性を考察すると、古代に、福島沖と岩沼沖を震源とする地震が連動して起こった。岩沼の海岸での津波の高さは100メートルを超えたと思われる」と推測する。
 「地蔵森山も千貫山も、同じ整合性のある津波ということになれば、2つの津波伝説は信ぴょう性があるのです。津波伝説にも10のうち1つは必ず真実がある。それを解明するのが、我々の役割です」(飯沼氏)
次のページ>> 地震学と歴史学の融合で「津波の危険性」を伝えよ
地震学と歴史学の融合によって子どもたちに「津波の危険性」を伝えよ
 そんな宮城の歴史学者の飯沼氏から紹介された東京大学史料編纂所の保立道久教授は、中世の地震や噴火を研究している数少ない歴史学者の1人だ。保立教授は2012年8月、過去の埋もれた地震や噴火との関わりを紹介した『歴史の中の大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』(岩波書店)を出版した。
 保立教授は、歴史家サイドからというより、地震学者の側から、すでにこの問題が提起されていたと指摘する。
 「佐竹健治先生(東京大学地震研究所)ら地震学者たちから、石巻平野にも東日本大震災とほぼ同じ規模で浸水していた様子が2010年までに論文でまとめられていたことは、大変ショックな話でした。1980年代末以降、地質学の箕浦幸治先生(東北大学理学研究科)が、869年の貞観津波の痕跡を調査された論文を出し、産業技術総合研究所の活断層地震研究センターが、石巻から仙台平野全体、福島原発の北にかけて、海岸から5キロほど津波の運んだ砂層が来ていることを確認しています」
 それまで、石巻以南の平野部には、大きな津波はないという思い込みがあった。これだけの論文や物証が出ていて、国でも公的な議論が始まっていただけに、それらが発表されていれば、とくに学校や教育現場に伝わっていれば、少しは違っていただろうという。
 「これらの成果は、東北の歴史学者の間には伝わっていました。しかし、東北では歴史学者は2003年の宮城県北部地震の被災をうけた歴史資料のレスキューで精一杯やっていましたが、保全資料は江戸期のものですから、慶長の大津波以降の分析が中心になるのはやむをえませんでした。歴史学者が、職務をかけてやってきたのは事実ですけど、とくに全国の歴史学者となると、事態を現実感を持って判断して必要な研究をするのに立ち後れがあったのは事実だと思います」
 とくに、歴史学については、8~9世紀の地震や津波、噴火についての専門的な研究者がいなかったという。
 「歴史学の中に専門論文が1本もなかったという状態でした。ですから、それに比べて、地震学はよくやっていたと思います。彼らはマグニチュード9の地震の予測ができなかったと言うわけですけど、歴史学の研究者としては申し訳なく思っています。社会にきちんと伝え、教育の中にきちんと持ち込み、議論をするところまではイニシアチブが取れなかったのです」
 保立教授によれば、明治以降、1000人以上の犠牲者が出た地震だけでも12回あったという。歴史学者としてはそうした「災害史研究を深めて、説得力のある叙述をすることが第一」だと指摘する。
 また、自然科学と一緒になって、自然史の研究の必要性も訴える。
次のページ>> 地震の科学と歴史を小学校から教えていかなくてはならない
 「地震と噴火は、日本の国土の最大の特徴です。日本の文化の中に、自然の猛威がどのように位置づけられているのかを正確に復元して、伝えていかなければいけない」
 そのうえで、保立教授は、教育の体系を変えていくことの必要性を説く。とくに、(プレートが変動しているという)プレートテクトニクスは、小学校教育で教えなければいけないという。
 実際、この国は、噴火によって大地が造られ、海流や大気のあり方も含めて、水の豊かな独特な島国である。
 「とくに東北は、豊かな大漁場の1つであり、最大のメリットであると同時に、何度も大津波が起きていることを知っていれば、何メートル逃げればいいかという問題ではなくなる。絶対的な地球の動きなのだから、どんどん逃げなければいけないことを科学的な知識として、子どもたちは持つことができるはずなのです」
 大津波を発生させる可能性のあるプレート型の海洋地震のうち、もう一方の地震発生帯の南海トラフは、「100年に1度」確実に動くという。
 「巨大な岩盤や海底火山の場所など、地球物理学的に地下構造を分析していくと、紀伊半島の前後でフィリピン海プレートが曲がっていて、先に東海地震が起きると、南海地震が続くのがいままでの例です。そうした先端の研究は、日本の文化や歴史に直結した問題。貞観津波のあった9世紀はどういう社会だったのか。飯沼先生がいうように、祇園社が京都にできて、この頃から始まったのも、明らかに地震と関係があると思う。その両方を子どものときから知っておくことが大事なのです」
 地学教育はここ20年くらい、無視され続けていて、教科書も授業時間も少なくなっていたという。
 しかし、日本で防災を考える上でも、学術的な知識と知恵と、日本がどういう国土なのかということについて、教えていく必要がある。
 これからは、学会と学校が連携して、オープンに教材を考え、地震に関する最先端の研究と日本の文化・歴史を小学校などの現場で教えることで、子どもたちに津波の“危険性”を伝えていかなければならない。

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