仕事と関連して、福島県のとある地域によく足を運んでいる。ここで宿をとるようになってまず驚かされたのは、テレビで流れる天気予報に、花粉情報と同じような調子で放射能情報が含まれていることだ。地元の人と話すと、よく原発近くの町の人々の話になる。「一度見てきたらどうですか」と宿の人が言う。
ずっと現地を訪問しようと思っていたけれど、正直、腰が重かった。なぜかというと、現地を訪問することは、被災者とそうでない人たちの「立場の非対称性」という、いく分か暴力的な構造に加担してしまうような気がしていたからだ。
そんな時、「そういうことをちゃんと分かっている限り大丈夫ですよ。僕の友だちを紹介します」と、数年来の友人が背中を押してくれた。彼は、震災後に地元の宮城に戻り、そこでふらっとーほくというプロジェクトを立ち上げた人である。
20キロメートル圏内の小高区にたなびく鯉のぼり
1カ月前。原発から10キロメートル圏内にある浪江町に、地元のNPO(非営利組織)であるBridge for Fukushimaの人と一緒に思い切って訪問してきた。
仮想現実ではない「人が全くいない町」
ドラゴンクエストのような、仮想の世界を旅するロール・プレーイング・ゲームでは、人間が全くいない町が出てくる。実際にそういうことが起こったらどうなるか。時を止めるのは人間活動だけなので、自然は時間の経過とともにエントロピーを増大させ続ける。
海岸近くの田んぼが広がっていた場所では、津波に流された車が放ったらかしになり、稲の代わりに雑草がそこを新しいすみかとしていた。街中でも、これまで人間に追いやられてきた鬱憤を晴らすかのように、植物がそこかしこに生い茂り、猿やキジ、ねずみなどがあたりを徘徊している。海岸地帯は、震災後ほとんど手を付けられていないため、2年前とほとんど変わらないままだ。
もとは田んぼが広がっていた場所。雑草が生い茂り、車を飲み込んでいる
現地の人の話を聞いて、分かったことを3つにまとめたい。なお、この原稿は現地の人にも見てもらっているので、「1日だけ行ってきた人の勘違い」はそんなに多くないと思う。
被災地の人々の間に横たわる見えない境界線
原発30キロメートル圏内の住民は、避難している限り1人当たり月に10万円の慰謝料がもらえるが、40キロメートル圏内で30キロメートル圏外の人はそれを受け取ることができない。この違いは、少しずつ人々の心に影響を与えている。
40キロメートル圏内の住民は、最初のうちは30キロメートル圏内から避難してきた人を気遣っていた。「帰る場所が失われるのかもしれないのは大変だろう」と。しかし、時間がたち、自分たちが働く隣で、仕事もせず慰謝料を受け取り続ける人々の生活を見る中で、その思いは変わりつつある。
全体の何%なのか不明だが、若干の妬みのようなものを見せる人もいる。スーパーなどでたくさんの買い物をしている避難者たちを揶揄して、「10万円コースの人」とよぶ人もいるという。
さらに、30キロメートル圏内の住民の間でも、もう帰ることが相当に難しいと考えられている10キロメートル圏内の住民、住むことはできないが、自宅に自由に立ち入ることはできるようになった10~20キロメートル圏内の住民、かなり早期から自宅に戻ることができるようになった20~30キロメートル圏内の住民の間でも温度差が存在している。
現地の人々は自業自得なのか?
「原発の周囲に住んでいた人たちは、東京電力からその恩恵を受けていたのだから、被害者でも何でもない」という意見をよく耳にする。地元の人の中にもそう放言する人がいる。しかし、こういった意見はフェアなのだろうか。
まず、福島原発の恩恵を受けていたのは一部の町のみで、大熊町や双葉町などの立地町を除くと、原発関連の仕事に就いている人はかなり少なかったし、人々の生活は決して裕福ではなかった。例えば、浪江町は原発立地町ではないので直接的な恩恵を受けることはできず、震災後も情報がすぐに入ってこなかったため、震災直後の町民は錯綜する状況の中で大変苦しんだ。私たちの多くは、原発付近の町を十把一絡げにとらえがちだが、それだけでは見えてこないことがある。
さらに、今まで原発近くの町が受けてきた恩恵を、あたかも公正なリスクの対価のようにみなしている点もおかしい。地元の人々は、事故が起こる前まで「原発は絶対に安心安全」であると教えこまれていたし、原発の安全性に関する都合の悪い情報はほとんど伝わらないようにされていた。情報が統制され、きちんとリスクを把握することが困難な状況で行った判断をもって「自業自得」と断ずるのは正しくないだろう。また、生まれ育った場所が昔のままでは返ってこないということの代償は、自業自得というにはあまりにも重い。
改めて感じる「働くこと」の持つ深い意味
先にも述べたように、30キロメートル圏内から避難してきた人たちは一人あたり月に10万円を慰謝料として、例えば4人家族なら月に40万円を受け取ることができる。物価が安い地方で、月にこれだけの慰謝料が受け取れるのであれば、働かなくても十分に生活することができる。
仕事をしなくていいというのは羨ましいことのように聞こえるかもしれない。しかし、仕事もしないでただ慰謝料だけをもらっていると、精神が病んでくる。仕事は、お金を稼ぐ手段であるだけでなくて、社会的存在である人間の根幹でもあるからだ。
しかし、被災した人々には仕事がない。仕事がないことは日本の地方の慢性的な問題だが、そういった地域にさらに避難者が流入しても、労働力の需要が増えるわけでもないので問題は解決されることがない。南相馬から離れ、仙台や郡山、福島などに仕事を探しに行く人も多い。郡山の線量は原発30キロメートル圏内の一部の地域のそれより高いにもかかわらず、郡山に行ったきり戻ってこない人もいる。「都市部のほうが暮らしやすいことが分かってしまったのだろう」と地元の人が口にしていた。
無償のボランティア仕事であっても、「働きがい」という観点からはとても大きな意味がある。Bridge for Fukushimaでボランティア活動をしながら、自身のNPOを立ち上げた久米静香さんは、震災後に放心状態だった自分を立ち直らせてくれたのは、ボランティア活動だったと振り返る。久米さんは、元々は原発20キロメートル圏内の小高区に暮らしていた。
人間は、自然の猛威に対しては無力である
原発から5キロメートル強の地点にある海岸で、ボロボロになった防波堤に立ってみた。沢山の命と人びとの生活を飲み込んだ浪江町の海は本当に、本当に、戦慄を覚えるほどに美しくて、粛々と何事もなかったのかのように波を打ち続けていた。自然は無情な厳しさと圧倒的な美を矛盾なく備えていて、全てのものを包み込み、洗い流す。もしも死神がいるのだとしたら、この海のような美しさをまとっているのかもしれない。
当分のところは、人間は自然の猛威に対しては無力なのだろう。だからこそ、自然に抗うのではなく、自然に寄り添うようにしてエネルギーや都市のシステム設計をする必要があるのではないか。
Bridge for Fukushimaは定期的にツアーを企画している。百聞は一見にしかず。しかも、現地のNPOと一緒に行くからこそ分かること、聞けることは多い。もし時間があれば、この浪江の海を、そして、ここから立ち上がろうと意気軒昂な人々を見てきてほしい。